集合と分離

動作と速度と私はどちらに重きを置いているだろうかとふと考えた。

機敏に動くものの、その動きにはいつも誤作動をおこしてしまう。集中力がないからだと言われることも多い。頭の先から爪先まで神経を行き渡らせることができない。興味の振り幅が大きい。ひとつの事柄からはじまる連想ゲームはエンドレスだ。想像力というよりも、単純な連想ゲーム。記憶が蓄積すればするほどに、連想ゲームは果てしなく繋がっていく。

到達点を先に先にと考えると私は速度も速いのだと思う。しかし重視していることは動作であろう。アイドリングとはよく言ったものでエンジンを温めなければ全速力には到達しない。ウォーミングアップとい言い方でもいい。温め上げる。

寒さは体をこわばらせ、動作を遅くさせる。寒さはストレスだと解釈されると、ストレスにさらされている私たちは冬場のほうが疲れやすい。

動作が遅くなることは筋肉の収縮だけでなく、神経の動きにも誤作動を起こすのだろうか。疑問はたくさんある。なにせその手の分野を私は範疇としていない。


動作と速度において自分のペースを守れると、外界からの刺激を守れるような気がする。自分の歩幅と速度というのは誰かが追い越していった時に感じてしまうものだからだし、誰かが後ろでのろのろ歩いているから自分が早いと思い込んでしまう。

うさぎとかめの例えがわかりやすいだろうし、急がば回れという言葉も相応しい。

友人がいつか教えてくれた、

my pace とpace my selfは同じ意味であると。

同じ意味をなすのに、後ろの文章はひとつ「self」がくっついている。語順を逆にすると、ひとつくっつくものがあるという構造が面白い。

ひっくり返して考えるとひとつプラスされたり、ひっくり返して展開するとひとつ身軽になったり。構造さえ知っていれば私たちはどんなことにでも応用することができそうだ。

物事の本質を捉えよというのは、何かひとつの学問に傾倒し盲信するというよりも、もっともっと根源的な原則を掴み取れということだと私は感じている。どんなことにも原則を見つけ出すことはあらゆる文明の目的であったと言われている。世界をひとつにまとめるとは、ひとつの言葉で語り、ひとつの国家にまとめあげ、ひとりの指揮者のもとで、ひとつの民が、ひとつの目的のために、ひとつだけ何かを犠牲にしてきた。

数字は時としてマジックだ。

1の集合体が2であり3である。けれど、3や2を分離すると1になる。

家族も恋人も独立数の集合体である。個々人のアイデンティティを忘れては集合体を形成することもできないのだ。



all things is one plus one and one...conversation is also word plus word...anything is macro, everything is micro

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