You should find it

言葉に対する神経質さはクリスチャンにはよくあることだと思う。外界と比べるほどに、クリスチャンは屁理屈が多い。言葉を大切にするのは聖書を読んでいるからで、聖書は原文を無理やり和訳しているから誤解も多い。今はすでに使われていないようなラテン語からの訳であるから。英語訳にしても時たま不確かな言葉となってしまう。

聖書は一点一画も失われるべきではないと、イエス・キリストが注意している。

言葉は感情を伝達する道具だが、扱い方を間違えれば戦争さえ引き起こしてしまう難しい道具でもある。扱い方が難しいのだ。

屁理屈だと切って捨てられた時に追い討ちをかけるように「空気を読め」という定型文を使われたことがある。

理解を拒否した上に自分の感性に寄せてこいと強要されたと今となれば理解できるが、当時の私からしたら意味もわからず叱られた気分で自分を徹底的に攻めた。

良い思い出である。あんなことは今誰に対してもすまいと思っている。


助詞ひとつにしても、構文の組み替えひとつにしても気を遣っている。鍛えられているともいえよう。言葉を交わさない限り私たち人間の絆は強くならない。日々言葉を使わない日はない。鍛錬と修練である。と、捉えられるのはやはり聖書の言葉を知っているからなのかもしれない。

知っていることは強い。知識は道を歩くだけでいくらでも転がっている。知識を吸収しようとか、物事を理解しようとする向学心と好奇心があることは卒業証書に勝る伸び代を包括していると私は思う。ニュートンが大学の座学のみで万有引力を発見したわけではないことが良い例だ。

我以外皆我師という言葉が示す意味をもう一度「クリスチャンの屁理屈」に立ち返って考えてみる。

疑問を持つことや、言葉に対する正しさを求めることは向学心であり好奇心のあらわれである。なぜ?があるから、答えを求めようと進み始める。

出発点は疑問点であるし、そのために質問しなければ何事も迷宮入りしてしまう。

迷宮の出口を見たことがある。

迷宮の主を倒すことである。

つまりは疑問を解決しない限り、迷宮から脱出することはできないのだ。




You have to have a Question what all things anytime.Now what kind of Question do you have?

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